つれづれと

雑食おたくが綴る感想やら独り言やら写真やら。

おぼんろ第15回本公演『キャガプシー』について

わたしは言葉の力を信じています。唐突な宗教感でごめん。

「ペンは剣よりも強し」という言葉がとても好きで、世界を動かすのは武力なんかより言葉の力だって思ってる。言葉の力は無限で、いくらでもどこまでも世界を作る力を秘めていると思ってる。だから言葉を紡ぐのが好きだし、誰かの紡いだ言葉を読むのがとてもすき。

けれどもそんなわたしが「おぼんろ」の公演を見て、思ったことが二つあった。

ひとつは「実のところ言葉とは有限である」ということ。そしてもうひとつが「しかし言葉とはやはり無限である」ということ。そんな感じのとりとめのない、おぼんろ第15回本公演『キャガプシー』感想です。どうぞ。

 

 

 

 

 

わたしにはオタクのお友達がありがたいことにたくさんいるんですけれども、そのうちのお一人が急に「末原さん」「おぼんろ」という聞き慣れない単語をTwitterで呟くようになったのがしばらく前からのこと。その都度気になってはいたのですがなかなかその世界に触れる機会がなく、こうして迎えた2017年秋。その友人とTwitterでリプライのやりとりをしている中で「週末おぼんろ行かない?チケットあるよ?」とお誘いをいただいたのが、すべてのきっかけでした。

「おぼんろ」。名前は知ってる。彼女が最近ハマってる劇団だ。そしていろいろお話を聞いていたので、今回の上演がテントで行われること、美術品をいろんな人から集めていること、なんてのは事前知識として知っていたので、その公演がすっごい気になっていたのもまた事実。だってテントでお芝居見るんでしょ?そんなんぜったいたのしいじゃん。

しかし彼女が提案してくれた日程ではすでに別の用事が入っていたため、わたしはTwitter上で彼女に「その日はごめん…でもおぼんろめちゃめちゃ気になるマンだからいつか行きたい!」とリプライを送り、謝罪したのでした。

 

ほんで翌日。仕事の昼休みにスマホを開いたら珍しく「引用RTが来ています」との通知がひとつ。なんだなんだ?と開けてみると、末原さんご本人様から「めちゃめちゃ気になるマンなら来るマンになるといいよ!」と引用RTが飛んできていたのでした。わ~~~~!!!主宰に見つかった~~~~!!!! ※現在そのツイートは削除されています。

あとから知ったのですがこの末原さんを始めおぼんろ関係者様はみなさんめちゃめちゃエゴサするマンでおなじみらしく、一言「おぼんろ」と発するものならいろんなところからRTが飛んできたりふぁぼられたりこのように引用RTで晒し上げ(笑)されるらしい。友人はもちろんそのことを知っていたためわたしが彼女宛てのリプライに「おぼんろ」という単語を入れた時点で彼女は「あっ、かんざきやっちまったな、これは見つかるわ」と同情してくれたらしいのだけど教えてくれんかったじゃん。後出しジャンケンじゃん。

そしてわたしはこういう、自分のところに客を呼び込むガッツがあるコンテンツにめっぽう弱いもんで、この状況がすごく面白くてなんかもう会社のデスクだったんですけどメッチャ笑ってしまって、彼女のお誘いと末原さんの引用RTのおかげで、もう、なんとしても行かねば!これはもうおぼんろ、行かねば!!!と決意し、その場で友人に連絡を取り無理を言って『キャガプシー』千秋楽のチケットを確保してもらったのでした。友人さまほんとうにありがとうございます。

 

てなわけでここまでが前書き。

 

 

 

 

『キャガプシー』は前述の通りテント公演。普段はなんにもない原っぱに、公演期間の約1週間だけテントを建ててそこでお芝居を上演するというもの。場所は葛西臨海公園の一角。みんな大好き東京ディズニーランドがある舞浜駅のお隣の駅です。元々いわゆるDオタで舞浜にはよく通っているオタクだったもんでやった~!かさりん~!近い行きやすい~!!!ってのもなんかうれしかった。自分のよく知っている土地に自分の全く知らないものが生まれる喜びとか高揚感とか、そういうものが行く前からありました。

千秋楽は日曜の夜。友人と駅で待ち合わせして、そこから公園の中をしばらく歩く。けっこう歩く。11月の夜、それなりに寒い。そしてなにより真っ暗である。街灯もぽつぽつと頼りない灯りをともしていて、代わりに右手に見える観覧車だけが煌々と輝いている光景がすでに「ふしぎ」な感じだった。知っている場所なのに、知らない場所みたいで。

そして道行く途中の街灯に縛りつけられているのは、「要らなくなったもの」で作られた人形たち。この「要らなくなったもの」というのは劇団側がお客さんたちに呼びかけ集めたものだそうで、服だったり布だったり、空のペットボトルだったり。そういうもので作られた人形が、公園の各所にぽつぽつと、いるんですよ。夜道にそれを見たせいもありそれがもうちょ~~~こわくて、なにこれ!こわい!なにこれこわい!!!って指さしながら笑って歩いていたんですけど、

 

帰り道にそれ見ながら泣きたくなるなんて思わないじゃん…?ほんとそういうとこだよ。

 

そしてそんな人形たちを横目にそのままずんずん進む。途中、道に迷いそうになりながらも進む。暗い道を進んで行って、うっすら夜の海が見えるところを右折すると、思わず、わあ、という声を上げてしまいました。

 

真っ暗だった道を抜けると急に現れる輝くテント。それは本当に「輝いている」という表現がぴったりでした。予想していたよりもはるかに大きくてしっかりしたつくりのテントには、きらきらと楽しそうな電球がたくさんぶら下がっていて夜の海沿いの公園によく映えていて、地面の芝の感覚とか、テントから流れ出てくる軽快な音楽とかそのすべてが、なんていうか「テント公演」していた。実は、なんていうほどのことでもないですがわたしは昔からこういう「テント」というものに憧れていて、おとぎ話や童話に出てくる「サーカスのテント」というものをいつか見てみたいと思っていた幼少期を過ごした経験がある身としては、あこがれの「テント」がいま目の前に存在していて、いまから自分はあの中でお芝居を見るのだ、と思ったらそれはもうどうしようもなく興奮した。メチャメチャ興奮した。「このテント見られただけでここに来てよかった」とその場で友人に告げました。そのくらい、幻想的で、美しいテントだった。きれいできれいで、きらきらしているテントだった。

 

そんでもってテントの入り口にふつうに役者さんはいるわふつうに座席案内してくれるわでびびりました。開演前なら写真も撮り放題だったらしく、あ~~~一眼持ってくればよかった!ってすごい思いました。衣装がほんと好みだったんすよ。和モノを着崩してたりリメイクしてるやつめっちゃすき。みんなかわいかった。

 

 

 

ここからやっと本編の話になります。ネタバレたくさん含みますのでご注意。

 

 

 

 

 

 

開演時間。いっぱいのお客さんで埋め尽くされたテントの真ん中。主宰の末原さんがふわりと衣装の裾をなびかせ言葉を発します。末原さんは真っ白な髪の毛にきれいなお着物を着ていらして、ほんとうになんていうか空想の世界の住人らしさ、みたいのが抜群に出ていてあと顔が綺麗だった。顔がメッチャ綺麗だった。顔が綺麗だった。この段階ではまだ末原さんは「末原さん」だったな、と今になって思います。役の衣装を着てはいたけれども、役ではなく、まだ「末原さん」だった。

開演前の諸注意。いろんなところ動き回るから自由に見てね、とか。あと役者さんの紹介とか(上演前に紹介するお芝居をあんま見たことなかったので新鮮でした)、そしてこの「物語」は、わたしたち観客も参加してこそ意味が生まれるものであるという説明とか。ここは確かに葛西で、けれどもお話が始まったらそこは葛西ではない場所になるかもしれない。物語の中では森の中だって、深い海の底にだって行ける。そして行くのはわたしたち自身だ、みたいな、話。

そこから「想像力の練習」みたいなのをするためにみんなで目を瞑って末原さんの声に耳を傾ける時間があったんですけど、それがとても不思議だった。末原さんの「想像してください」という言葉でいっせいにみんなが目を閉じる。瞑想、とはまた違うのかもしれないけれど、わたしはその時間になんだか自分が深い深い地の底、穴の底、なんていうんだろう、とにかく下へ下へと落ちていく感覚がとてもして、末原さんの声に合わせてエレベーターに乗っているみたいに、地上から自分の心がどんどん地球側に降りていく、みたいな感覚を覚えて、そんなことは初めてだったので、すごくこわくてでもたのしかったです。あれなんだったんだろう。初めての感覚でした。そして末原さんの言葉に合わせて森の中に自分を置いてみると、森の向こうに開けたところがあって、そこを抜けると草原、だったんですよ。そしたら末原さんもおんなじこと言ってて、ああ!そう!そうなんすよ!草原あるよな!!!わかる!!!!ってなった。ようわからんなこの話。とにかく、この「想像力の練習」の時間で、なんだか頭がぼおっとしたまま、公演が始まったんで、すごく、すごくなんだろう、いままでにない気持ちでお芝居を観ることになりました。たぶん「観る」ではなかったんだろうなと今になっては思う。「観る」んじゃなくて「居る」ことが大切だったんだろうな、そのための時間だったんだろうなあと。

 

 

そして、末原さん(ここもまだギリ末原さんのように感じた。あるいは語り部、けれどもその語り部も限りなく末原さんに近い語り部。)が取り出した一冊の本から、『キャガプシー』が始まるのです。

 

 

 

とある世界。人間が罪を犯すのは人間のせいではなく人間の中に「ケガレ」が入り込んでしまうからだと考えられていたとある世界。そんな人間の「ケガレ」を浄化する方法、それが人間の体の一部を詰めて「キャガプシー」という人形を作り、その人形を破壊すること。しかしこの人形は人形によってしか壊されない。キャガプシーをキャガプシーが壊すことで初めて人間の「ケガレ」を浄化することが出来る。こんなキャガプシー同士の壊し合いは海辺でひっそりと行われていたはずでしたが、それを見世物としてテントを開いた男がひとり。それが今回の登場人物、「ネズミ」。

 

ネズミは人形師の「ツミ」と一緒に生活をし、ツミが作った人形にネズミが色を付け、そしてその人形たちをテントで戦わせます。しかしいつも勝つのは、10年間無敗を誇る最強のキャガプシー「トラワレ」。そして登場人物がもう一人。ツミが作ったキャガプシー、「ウナサレ」。この4人が、たった4人が、物語を動かしていきます。

 

 

 

 

わたしは正直ずっと心が痛いと感じていた。みんなが痛くて痛くくてしかたない物語だと思った。みんなそれぞれずっと泣いていると、そう思った。10年前にツミのお父さんを殺してしまい、ツミの目を潰してしまったネズミ。そんなネズミが父の敵だとは知らず、むしろ父を殺した暴漢から自分を守ってくれた恩人だと信じているツミ。10年前に亡くなったツミの父親が最後に作ったキャガプシーであるトラワレは同志とも言えるキャガプシーを壊し続けることに疲れ、決して他のキャガプシーと話をしたり交流を持つことがなかった。みんな泣いていると思った。それぞれがそれぞれ、ずっと泣いてきたんじゃないかなと思った。

 

そんなときに「ウナサレ」というキャガプシーが現れた。否、正確には「作り出された」。ネズミが町のテレビジョン放送の契約を持って来たことで、トラワレと新米キャガプシーを戦わせる見世物を全国放送する運びになったからだ。そのためにウナサレは、急ピッチで作られた。完成を急ぐあまり、ネズミの髪の毛も入り混じって作られた。そのウナサレは、できそこないだった。できそこないだったけれど、よく笑うキャガプシーだった。

わたしは、このウナサレこそいちばん泣いていると感じた。ニコニコニコニコ、いつも天使みたいに笑う彼の言葉に、表情に、いつも涙が浮かんでいるように聞こえた。直感としてなんでかはわからなかったけれど、こうして振り返って考えてみると、「ウナサレ」は「ネズミ」だったからじゃないかな、と思う。

 

ウナサレが作り出されるとき、ツミは始め、材料が足りないと言った。けれども材料集めを待っていてはテレビジョンの放送に間に合わないと焦ったネズミは、ツミの目が見えないことをいいことに、そのへんにあった適当な布とかを集めて、ほらこれが材料だ、とツミに渡す。そのときに偶然、ネズミの髪の毛が絡まって抜けてしまい、彼の髪の毛、つまり体の一部分がウナサレの体に詰め込まれてしまっている。だから物理的に「ウナサレ」は「ネズミ」だ。キャガプシーの核とも言える「誰かの体の一部分」が「ネズミの一部分」でできているのだから。

ウナサレは怖い夢を見る。人がたくさん、自分をにらんでいる夢。真っ暗で、嫌な音がして、自分が泣いている声もする。そんな怖い夢を見たと語るウナサレにネズミは言う。「それは俺の夢だ」と。ネズミの体の一部が入ってしまったから、ふたりは同じ夢を見るようになる。相手の考えていることがなんとなくわかるようになる。ウナサレはネズミの一部分だった。けれどウナサレはウナサレだった。

 

けれどどんなに内側で泣いていても、どんなに怖い夢を見ても、ウナサレはいつもニコニコしていて、それが周囲のみんなに少なからず影響を与えていく様子が、とてもやさしくてあったかかった。壊していくキャガプシーをなるべく知りたくない、といままでほかのキャガプシーと交流を持たなかったトラワレですら、明るく笑顔のウナサレのペースに巻き込まれていく。ツミも自身のつくったウナサレのやさしさ、あたたかさに魅かれて笑顔を見せるようになる。そのやさしさが、じわじわとテント内に広がっていくのが見ていてこっちも暖かくなった。けれどもウナサレは「トラワレと戦わせるために作られた。いずれはトラワレと決闘させられる」という事実を誰もが知っていたから、ウナサレが笑えば笑うほど、切なくてまた胸が痛んだ。そういう空間だった。

 

「ウナサレ」は「ネズミ」の一部だった。けれど最後、壊れる直前、息も絶え絶えの中、ウナサレはネズミに微笑みながら「僕はネズミの本当の部分だ」と言う。世界は綺麗だと説き、兄と慕うトラワレを好きだとまっすぐに伝え、常に笑みを絶やさず、やさしさと愛をめいいっぱい振りまいて、そして「キャガプシーでも変わることができる」と信じ続けたウナサレ自身が、自分はネズミである、ネズミのほんとうの部分である、と言いながら、大切なお守りのお人形を渡すラストシーンに、涙が止まらなかったのを覚えています。わたしは、ウナサレがずっと泣いているように、ずっとずっと痛がっているように見えた。それはきっと、ウナサレ自身のかなしみ、つらさ、それだけじゃなくて、ウナサレがネズミのそういうものも映していたからだと思う。それがここで伝わってくると同時に、そしていつも笑顔だったウナサレが、自分がネズミの本当の部分だと語る場面が、それを聞いているネズミの顔が、いまでも忘れられない。もう泣かなくていいよと言われたネズミの、10年間の彼の想いを考えたら、今でも涙がほろほろ出てくる。痛くて、けれども途方もなくやさしくて、いとしくて。

 

ネズミもまたキャガプシーだった。キャガプシーの彼がキャガプシーの見世物にこだわるのは、こんな馬鹿げた慣習をやめさせたいからだった。テレビジョンの生放送という大きな媒体を通して、世界中の人間たちに「本当に穢れているのはお前たちだ」と伝えたかったからだった。そのネタばらしをするときの悲痛な叫びが耳にこびりついている。痛くて痛くて、心臓がぎゅうとなる叫び、ネズミのほんとうの気持ち。そんな思いがあるからと言って、人を傷つけたり殺してしまったり、騙したりということが認められるわけではない、ないけれど、ネズミなりの正義と、ネズミの望みが吐露される最後の決闘の場面が、わたしはほんとうに好きでした。

 

だからこそ最後に、あれだけの愛をたっぷりと振りまいてやさしく微笑んでいたウナサレ本人に「僕はネズミの本当の部分だよ」と言いきってもらえたネズミは、ある意味で救われたんだと思う。同時にあの言葉は呪いだったのかもしれないけれど、わたしはあれがネズミにとっての救いだったと思っています。10年間、ひたすら必死に、自分自身の衝動と戦い、地道に、あるいは姑息に、積み上げてきたまっ黒な生活。そんな生活にピリオドを打つために作り出された、作り出したウナサレという存在に、自分も知らなかった、もしくは目を逸らしていた本当の自分、というものを見せてもらえたネズミは、きっとしあわせだったとおもうし、これからしあわせになれるとおもう。なってほしいと思う。そしてネズミがあれだけウナサレにイライラして当たり散らしていたのも、心のどこかで自分自身と似通っているものがあると気づいていたからなんじゃないかなっていうのも思います。自分と似ている、あるいは自分そのものであるということがわかっているからこそ、ウナサレの笑顔が眩しくてつらい。見ていられない。当たり散らして、怒鳴り散らしてしまう。ウナサレっていう存在は、周りの3人にそれぞれ違った影響を与えていたと思うんだけれど、ネズミにとってのウナサレは、理想の自分、あこがれの自分を映す鏡のような存在であったのだと思います。

 

それからもうひとつ、ウナサレがネズミを映していたと思う理由があって。それが「色」でした。目の見えないツミがネズミに「色は心」と語り掛ける場面が一度あります。そのときネズミはぶっきらぼうに「色なんて適当に塗ってるよ」と答えるけれども、たぶんウナサレがあんなにやさしい子になったのは、ネズミが塗ってあげた色のおかげなのかもしれない、と。10年間、ずっとツミがキャガプシーの形を作り、ネズミが色を塗る、という方法をとってきたわけだけれど、その間にどんな人形たちが生まれて壊されていったのかわたしにはわからない。けれどもしかしたらみんな、ネズミの塗った色のおかげでほんの少しやさしい子だったり、ほんの少しまっすぐな子だったりしたのかもしれない。わからないけれど、ウナサレを見ていたらそんな風に思ってもいいのかもなって思ってしまった。ウナサレがあんな「心」を持つことができたのは、もちろんトラワレとの出会いがあったことも大きな要因だろうけれど、その中にネズミがつけた色も影響していてくれたらうれしいなあと。

 

ラストシーン、ネズミは自身が使っている作業場(おそらくあそこは以前はツミの父親の作業場だったんだろうな)に行き、ペンキを取り出す。そのペンキは真っ青で、それは以前ツミが「わたしは水色が好き、水色は幸せの色」と語っていた色を彷彿とさせる色だった。そのペンキを、ネズミは顔の右半分に塗りたくっていく。自身を水色に染めていく。だからネズミはこの先しあわせにならなきゃいけないと強く思った。そして顔の右半分だけにペンキを塗ったのは、左頬には十字の傷があるからだろうか、とも。十字の傷は目の見えないツミがネズミの顔を認識する唯一の手がかりだと思う。それがたとえ父親の敵の手がかりだとしても、ネズミは敢えてその傷を水色で潰さなかったんだとわたしは思う。だからここからネズミは、自身の犯した「罪」を自分自身で背負う覚悟があるんじゃないかなって。もうネズミにキャガプシーは必要ない。自分の意思で生きていけると思う。そうであってほしいと思う。だからこその水色だったんだと思う。そう信じたい。

 

結論、ネズミがめっちゃすきでした。

 

 

 

テントで10年間負け知らずのトラワレもまた、ウナサレとの出会いで変わっていく。まっすぐな一本の剣みたいだった彼が、たまにふにゃんとする瞬間がたまらなく好きでした。人間らしい(人間ではないのだけど)顔でウナサレと接するとき、トラワレもまた救われていたのだと思う。そして、いつかここから出ようというネズミの言葉もまた、10年という長い間、彼を支えていたのは事実なのだと思う。

 

個人的にはトラワレとツミの関係性がとても好きで、父親が作った超えるべき存在のトラワレと、そんなトラワレに自身の作るキャガプシーがことごとく壊されていくツミ、という、愛憎?交わるふたりの絶妙な距離感が好きだった。立場的には人形師と人形なのだから、ツミのほうが上なんだろうけど、けれどもツミはトラワレを作ったわけではないから直接的の勝者ではない。むしろ自分自身の作品は、毎回毎回父の作ったキャガプシーであるトラワレに壊されているわけだから、結果としては敗者である。でもトラワレはツミ自身に危害を加えるわけでもない。ていうか10年間一度もツミに話しかけなかった。関わろうとしなかった。そういう距離感の二人が好きだった。

 

ていうかツミはちょっとずるいなあ人間だなあって思うことが何度かあった。登場人物内、唯一の人間。キャガプシーを作り出す人形師。立場としては上のはずだけれどツミはいつも被害者だった。でも、やっぱり人間だった。棒を取り出して自分自身を破壊しようとするトラワレを止めるときも、アンタを自分の作ったキャガプシーで倒したいからやめて、と言う。トラワレを気遣ってというよりかは、自分の目的と欲求のためにトラワレに語り掛けているように見えて、そういうところ、とても人間臭くて人間らしかった。キャガプシーを止めるコントローラーを使ったのも、ツミとネズミのふたりだったけれど、ラストはネズミの持っているコントローラーが使えなくなって、けっきょく、最後までキャガプシーを支配できていたのはツミだけということになる。それはきっとツミだけが純粋に人間だったからなんじゃないかなって。最後の、トラワレとウナサレの決闘から、ネズミの告白、そしてラストシーンに至るまでの流れ。ツミは、ツミだけがテントに立つのではなく、テントから伸びる階段の上に腰かけて3人のことを見ていた。それは、テント内で戦うのはあくまでキャガプシーだけで、人間のツミは上からそれを見る傍観者であることの象徴のようで、その場面の目線の高さの違いが、彼ら4人の立場の違いを表しているようでとても印象的だった。

 

けれどもツミもまた泣いていた。いつも不幸で泣いていた。だからこそラストの、ネズミが水色に染まって、ツミに世界の美しさを教える場面が、際立って美しく見えたのだと思うのだけれど。

 

 

 

 

さて話題はようやく冒頭の「実のところ言葉とは有限である」「しかし言葉とはやはり無限である」に移ります。これは、というかここまでも、ですけど、完全に自分の中の持論でしかないので、どうか自由に読んでください。

 

 

「言葉は有限だ」。そう感じたのは、今回の公演の主役は、ウナサレでもなくネズミでもなく「テントそのもの」であると感じたからだ。葛西臨海公園に一週間というほんのわずかな期間だけ建てられたテント。廃材や捨てられるはずだったもので装飾されたテント。そのテントは、この公演中「どこへでも行けた」のだと思う。不思議な感覚で、あのテントは上演中、きっと葛西臨海公園じゃない場所にいた。けれどもたしかに葛西臨海公園にいた。でも違う場所に行くことが出来た。空気も匂いも、あれは『キャガプシー』の世界だったから。ふしぎだった。ほんとに不思議な感覚だったんです。

これは想像だけれど、たとえば普通に普通の屋根と壁があるいつもどおりの劇場でこれが上演されていたとしたら、きっと劇中でいくら「ここはテントです」と言われてもここまでの感覚は味わえなかった気がする。だってわたしは本当にテントの中にいた。着込まないと少し肌寒く感じる11月の夜。地面に敷かれたシートの下から伝わってくる大地の温度とか、時折強く吹く風によって揺れる布たち。クライマックスシーンの、キャガプシーたちによって叩かれるテントの壁。こわいくらいに揺れる壁。それによって生まれる音。大きく力強く、トラワレの背を押す音。リフレインするウナサレの約束。そして最後の最後、ウナサレを抱き起こし静かにテントの外へと向かうトラワレ。彼らの眼前に広がる「外の世界」を一緒に共有できるよろこび。

そういうのを、知ってしまった。言葉だけではきっと伝えきれなかった、温度とか、香りとか、そういうものを、誰も、なんにも言わなかったのに、みんなで共有できてしまった。言葉ではできなかったことを「テント」という存在が成し遂げてしまった。言葉の信者としてはちょっと悔しかったんだけど、でも、これはもう、敵わないと思った。最後のシーン、トラワレがウナサレと共に外へと向かっていくあの背中と、あの空気。空気の硬さというか、質感というか、それはぜったいテント公演じゃないと味わえなかったものだったと思う。冷たい風が吹く海沿いの森へと歩き出すふたりが、はっきりと見えて、それを自分の目で見ることが出来て、わたしはうれしかったです。言い方ちょっと変かもだけど、あの瞬間は言葉の敗北がうれしかった。

 

ウナサレは、トラワレは、言う。沈黙こそが雄弁であると。テントはずっと沈黙していた。何も語らなかった。けれど彼こそ、きっと誰よりも雄弁であった。

 

 

 

けれどもわたしはやはり思うのです、「言葉は無限だ」と。

 

トラワレは語る。世界は美しいと。ウナサレが作られたとき、彼はこの世界は真っ暗だと言って泣いた。泣き叫んで暴れた。そんな彼をトラワレの言葉が止めた。

目の見えないツミはネズミに問う。世界はどんな景色かしら。どんな色をしているのかしら。きっと10年間幾度となく繰り返されてきたやりとり。

ウナサレはツミへ語る。世界って本当は綺麗なのだと。とてもきれいな色をしているのだと。

ネズミはひとり、呟く。本当は世界って、とてもきれいなのだと。

わたしはこの、トラワレからウナサレへ、ウナサレからツミへ、そしてまたネズミからツミへ、と、彼らがそれぞれ、それぞれの言葉で「世界の美しさ」を伝え紡いでいくのが、とても好きでした。

 

風の色を語り、星空の踊りを語り、森の輝きを語る。その「語られる言葉たち」はどれも煌めいていて、眩しくて、この世界の美しさをこれでもかと表現している。本当は怖く見える世界も、そんなことはなくて綺麗で美しくて、触れてみたいと思わせる「力」が「言葉」にはあると、思わせる場面で。

 

誰かの言葉に感動したとき、心が動いたとき、きっとその人の中にその言葉はいつまでも生き続けるのだと思う。ウナサレはトラワレが世界の美しさを語ってくれたことをずっと大切にしていて「耳を金庫のようにして、あの言葉を厳重に厳重に保管し続けている」と語っている。そうして自分の中で大切に大切にとっておく言葉というのは不思議なもので、いつか誰かに分けてあげたくなったりする。伝え紡いでいきたくなったりする。それが言葉の持つ無限の力であると感じた。トラワレの「言葉」で世界が美しいと知ったウナサレは、今度はその「言葉」をツミに分けてあげる。そうやって繋がっていく。繋がった先で、また新しい世界が広がる。たしかにもうツミの目は見えていないけれど、美しい言葉によって彼女の世界は広がる。言葉で広がっていく。言葉だからこそ無限だ。無限に広げられる。

 

ネズミはどうだったんだろうな、とふと思う。ネズミはずっと、おそらく10年間ずっと、世界は灰色だ、ちっとも綺麗なんかじゃないとツミに伝え続けていた。けれども水色のペンキを浴びながら、彼は「風は水色だ」と語り始める。ツミにとっての幸せの色、水色であると。10年間、ずっとどんな思いで灰色の世界を伝え続けてきたのだろう。きっとネズミにはずっと灰色に世界が見えたのだろう。けれど彼もまた、世界が美しいと「言葉」にすることができた。その瞬間から彼の世界は色づき始める。言霊、って言葉があるけれど、そういうことなんだろうと思うんですよなんか。なんか。うん。

 

彼らが綺麗な世界を語るとき、彼らの世界は綺麗になっていた。だからわたしは言葉が好きです。言葉が息づいている世界が好きです。

 

 

 

 

帰り道、なんかよくわからんきもちになって、よくわからん話をしてしまった気がする。出演者さんともご挨拶させていただいたり、たくさんのスタッフさんがせわしなく片づけの準備をしているのを見ていたら、なんだか突然さみしくなって、あしたにはこの素晴らしいテントもなくなってしまうのかと思ったら切なくなって、でもだからこそこの世界は美しいんだろうな~、綺麗なんだろうな~、などと、急に心の内でポエムを詠んだりしました。キャガプシーという存在が「壊されるために作られる」という矛盾しているような人形であるように、テントもまた「解体するために建てられる」みたいな…でも人生ってきっとそんなもんなんだろうな、って、いう、ポエムも。

終演後、主宰である末原さんが、独特の語り口でお気持ちをぽろぽろと語っていらして、その熱と、勢いにやられて、なんだか引っ込んでいた涙がまたはらはらと溢れてきたのを覚えています。『キャガプシー』という作品は後世に伝えられていくべき作品だと思うとおっしゃっていたのだけれど、そうなったら素敵だなあとぼんやり思った。きっと世界のどこにでも、このテントは存在できると思ったから。そうして、ずっとずっと語り継いでいかれる「物語」になったらいいなあと思った。そんで、おばあちゃんになったら孫に自慢すんの。ばあちゃんこの舞台の初演に参加してたんだよって。

 

 

帰り道は、街灯にくくりつけられているお人形、いえ、「キャガプシー」と目を合わせられなかった。彼らにそれぞれ、どんな物語があって、どんな終わりを迎えたのかわたしには知る由もない。けれどテントの壁を彼らが叩いてくれたことは、わたし知っている。そういう「物語」をポケットに入れて、あしたも生きて行くんだなあって、やっぱり輝く観覧車を見ながら思ったりしたのでした。

 

 

 

決して「非現実的」ではなかった。むしろ「現実に息づいている世界」だった。だから痛かったんだと思う。泣きたくなったんだと思う。けれどもだからこそ、底深くに根付いているあったかいものを掬い出すことができるような、そんな空間だったのだと思う。わたしがこうして家のコタツでだらだらと感想やらを書き連ねている間も「物語」は続いていくのでしょう。そんな世界を提供してくれたおぼんろに、『キャガプシー』に出会えてよかったなあと思ってます。コタツの中から。勧めてくれた友人にも、引用RTかましてきた末原さんにも、心から感謝しております。コタツの中から。ありがとうございました。素晴らしい空間でした。決して忘れられない体験になりました。生き証人になれました。

 

 

 

そしていつかまたあのテントに帰れることを願って。